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チェロとピアノと室内楽漬けの中、レッスンメモや練習メモ、合間に日々の徒然を綴ります。
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行き過ぎたコロナ・ピューリタニズムへの警鐘
2020-08-02 (日) | 編集 |
精神科医の斎藤環氏の記事が面白かった。以下ピックアップ、転載する。




 


前半は、人と人が直接会うこと自体に潜む暴力を「臨場性の暴力」と表現し、この暴力への耐性や感受性は人様々ではあるが多くの人が感じているもので、オンラインではこの「臨場性の暴力」度合いが対面より緩和されるという話から始まり、リモートで代替できない業種に低賃金なものが多く、結果として富裕層が引きこもる為のインフラを一部の人たちが臨場性と感染リスクに耐えながら担っているという「格差構造」をコロナが浮き彫りにしたという話。
 
後半で出てくる【コロナ・ピューリタニズム】とはうまい表現だ。
 
 
もともと医学的要請だった筈の「ソーシャルディスタンス」や「3密回避」がいつの間にか【道徳的規範】にすり替わり、『正義の暴走』を招く構図、感染者が謝罪させられるという、日本だけにある奇妙な風習。
「染リスク回避を守らないやつは社会の敵であり、バッシングされても仕方ない」という風潮。
 
>人々がいったん「正義」を誤解してしまえば、規範に沿わない一人を排斥しようという運動は必ず起こる。
優生思想にしても、廃仏毀釈(きしゃく)にしても、戦時下の敵性語の禁止や憲兵の取り締まりにしても、排斥運動は民間で増幅してきたのだ。

一方でしかしこの道徳的規範にすり替わったために、ロックダウン不要でここまで自粛が行き届いたともいえるジレンマ。
 
 
しかしそれでもやはり、ゼロリスクを求めることで社会の許容度が低くなることへの警鐘。

 
【以下転載】
私は医者だから、基本的には感染リスクを下げましょう、命を守りましょうと言わざるを得ない立場だ。しかし、なぜコロナに関してだけそう言われるのかは疑問に思っている。「これをすれば巡り巡って人が死ぬかもしれない」「人を傷つけるかもしれない」という行動を、私たちは日常的にとっている。例えば車の運転一つとっても、誰でも人身事故のリスクを完全にゼロにはできないことを分かっていながら、日常生活を送る上で必要だからとあえてリスクを冒している。我々の日常というのは、そうした行動の集積だ。そう考えると、コロナに関してだけゼロリスクを求めるというのは、明らかにおかしい。
 
福祉の考え方の中に「Dignity of risk(リスクを負う尊厳)」という発想がある。
あるいは「Right to fail(失敗する権利)」とも言われる。
障害のある人に対して周りは保護的に接しようとする。当事者が何かしたいと思っても「それは危ないからやめましょう」「それをやってしまうとあなたたちが死ぬかもしれないからやめなさい」と止める。その行動が実は、障害者の権利を損なっているという考え方だ。障害があっても、リスクを負い主体的に生きる権利は、健常者と同等に持っている。この発想を普遍化すれば、我々は誰しもリスクを負う尊厳を持っていると言えるだろう。
 
(略)
感染リスクを負ってでも行動していいと言える場面がもっとあっていい。

 
行き過ぎたコロナ・ピューリタニズムは、社会の有り様を貧しくする。(略)ゼロリスク社会ではなく、むしろ、リスクを負う尊厳を大切にする社会の有り様を、感染防止対策と並行して考えていく必要がある。
 
シリーズ・疫病と人間
対面に潜む暴力。許容度には差がある 
精神科医 斎藤環・筑波大教授


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