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チェロとピアノと室内楽漬けの中、レッスンメモや練習メモ、合間に日々の徒然を綴ります。
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閑話休題
2014-06-09 (月) | 編集 |
時代の囚人(抜粋)<黒田三郎>
  II
 
 
たったひとつのビイ玉でさえも
それが失われたとき
胸には大きな穴があいている
ああ
忘れた頃になって
ビイ玉は出てくる
ほこりのたまった戸棚の裏から
出てくるものは
それは
ひとつのビイ玉にすぎぬ
涙ぐんで
ときには涙ぐみもしないで
胸にあいた大きな穴をふさぐには
あまりにもありふれた
あまりにも変わりのない
ひとつのビイ玉を
掌にのせて
青く暮れてゆく並木の下で
どぶ臭い敷石の上で
ぼんやり立っていたことが
あったかなかったか





15歳の頃、父の本棚で出会ったこの詩はこころに強く残りました。

今日 久しぶりに読み返しました。


色々と今の自分の心境に(15歳の頃とは人生を重ねた分また違って) 響いてきます。





人の心は変わってしまう。
諸行無常です。





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ゆるゆると(4番)
2013-04-12 (金) | 編集 |
あまりハードでなく練習を。 


8日に2月以来久々のD先生のレッスンでした。
 
バッハの4番をいつまでもやってます。
Preludeは、納得するまでみていただくつもりで。

 
もうすぐ1年かぁ。 

最初はめちゃくちゃでしたね。今思えば
当時はM先生とダブルでこの曲をみていただいていたのですが
M先生に「耳が、和音で聴いてないんだな」と指摘されたのを覚えてます。 


精進1年。
 
その間、室内楽も経験を積みました。 

純正律での和音で音をとらえる訓練、意識的に積み重ねています。 



室内楽はそういう意味でとても良い訓練になりますね。
(もちろん、純正律和音内での音程に無神経な相手とやっても無駄ですけど…)
 

自分の場合、とくに求めてそういう能力のとても高い方々の胸をお借りして
劣等感にまみれながら必死で食らいつく、という感じでやっている、かな・・
 

自分、音程悪いよぅ、みなさん、ぶち壊してごめんなさい、と泣きながら。
 

でも、少しずつ耳が慣れて鍛えられてきます。
 

4番Preludeは 3番までよりガクっと難易度があがりますね。

右手も相当気をつけないといけないし、音程も大変に難しく
なかなか完璧には程遠い。 


まず「旋律」でとらえては絶対にNGということ。
 
すべてが和音で進行していることが、聴けてること、実装できること・・


その上でフレージングを考え「作戦」をたてること・・・
 


6月で1年だしそこまでになんとか、とは思うけれど
いつまででもやりますよ。納得するまで。
 

M先生はある程度のところで、次(ハイドンね)に行っちゃったんで、
残るはD先生。 
「よし」が出るまでいつまででもやってやるーー!
 

Preludeだけなんです。そんなに難しいのは。
レッスン&練習時間の全体を10としたら、Preludeが9行くと思います。
 


でもだいぶ自分なりに詰まってきたから、もうちょっと粘ります。 









 


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ぼろぼろな駝鳥<高村光太郎>
2011-08-14 (日) | 編集 |
何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。

動物園の四坪半のぬかるみの中では、

脚が大股過ぎるぢやないか。

頸があんまり長すぎるぢやないか。

雪の降る国はこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。

腹がへるから堅パンも食ふだらうが、

駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。

身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。

瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。

あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。

これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。

人間よ、

もう止せ、こんな事は。





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焦がれ生きよ~現代詩との出会いと「表現するということ」
2011-07-23 (土) | 編集 |
一番好きな詩人 高野喜久雄。

彼の詩と出会ったのは高校2年だったか。

父の本棚の中で。

言葉」には
できるだけ小さい光を
そして「心」は
できるだけの高さに 置きましょう
すると
ほら
その高さまで
すべて この喪失でさえ
何と見事な「噴き上げ」
となり得たことでしょう



  「噴き上げ」~詩集「存在」より




短い中にどこまでも自分をつきつめ
きりきりと求心的に追い込んでゆくような言葉。
激しく心を揺さぶられたのを覚えている。
 
夢中になった。


その私を見て父が呟いた。
「やっぱり母娘だな。
 お母さんも若い頃に高野喜久雄が好きだった」

私は父側の遺伝子が濃かったし
なんでも直情径行で感情を爆発させまくる母親が嫌いで
私が理屈で言い返すたび母の激情に火に油を注ぎ
常に血みどろの対立をしていたから
あんなひとと似ているところがあるだなんて
まっぴらゴメンだと思ったけれど
 
だけど その感性に本能的に強く引きこまれたのだった。
 
人は自分の中にないものには関心を示さない。 
 


私は激情家だと思う。
だから理性を求め 自己分析して
それを生で外に出さずに内側に秘めようとしたのだと思う
それが詩や絵を描くことに結実していたのだろう。
 

私と現代詩の出会いについて少し書いてみようと思う。

 

高野喜久雄の前に
「生まれて初めて関心を持った現代詩人」は黒田三郎だった。
中学1年だったろうか、2年だったろうか。
「赤い鳥」というフォークグループの歌う「紙風船」という歌がきっかけだ。
シンプルだが心ひかれる言葉の世界と感じた。
なんだか胸がきゅっとするような気持ちだった。
 
自分の中に眠っているある感性に 
名前をつけて呼び起こすようなものだったろう。


落ちてきたら
今度はもっと
高く
高く
打ち上げようよ

ーー何度でも打ち上げようよ
  美しい願い事のように

    赤い鳥「紙風船」

 


たしか、地元の一橋大学の兼松講堂での彼らのライブで、
黒田三郎の原詩に惚れ込んだリーダーが奥さんに直談判で許可を得て歌にした、というのを聞いた。
それが私と現代詩、というものとの出会い。
(背表紙では物心ついて以来、父の本棚に並んでいたものだったが中身は読まなかったから。)
 
黒田三郎についてはもう少し先がある。
チェロをやめてから通った塾で
10歳上の中大出の文学青年が英語の講師をしていた。
それが仁平勝さん。
 
この人に14歳の私は猛烈に心惹かれた。
たぶんあれは確かに恋心だったと思う。
  
彼は国語も教えていたのだが
自作のレジュメやテスト問題には文学ネタが満載だったのだ。
沢山のひきこまれる詩がそこには登場した。
室生犀星が立原道造をうたった「木の椅子」は印象的だったし、
黒田三郎の「小さなユリと」からいくつか出題があった。
  
夢中になった。
 

黒田三郎の詩にもだし、私にとって「ど真ん中」の世界を次々提示してくる彼に。
 
ビートルズの訳詞にいそしんでいた私は、
「質問」をする名目で、駅前の喫茶店で2人で沢山の会話をした。
詩の話。文学の話。
私の父が詩人のはしくれであることを 彼が知っていたのも感動だった。
 
「あの水田喜一朗さんの娘か!」と言われた。
「鮎川信夫氏論集の中で取り上げられていたよね」とも言われた。
 
父に言わせれば「こきおろされた」ということだけれど、ともかくも確かにほんの一節だけれど父の詩はそこに引用されている。
だけどそんなものを知っている人なんて相当の現代詩フェチだ。
父は自作の詩よりも、ルネ・シャールの訳詞などの方がまだ名前が知られていたんだから。
 
そんなこともあり、仁平さんは私の心の恋人であこがれであり続けた。
私の詩の批評もしてくれた。
彼が離婚して再婚しても変わらず音信は続き、今も自分の人生の節目があれば必ず連絡をする。
 
話がそれたけれど、中学時代にそのようにして現代詩の入り口に立つことになったのだ。


そして高校になり関わりは一気に深くなる。
激情家の私は恋愛感情も人一倍強く、いつも深刻になってしまう。
だから私は自分の感情といつも戦わなければならなかったし
対話相手は大学ノートだった。
 
苦しさのあまり大学ノートに片っぱしから言語化して書きこむ。
それが煮詰まってゆくと詩の形になってゆく。
 
万の言葉が 5行に煮詰まる、そういう感覚。
 

仁平氏がいつだったか、私のある「詩」について
「これはまだ詩ではなく、詩的スケッチだ。 
 これだとミズタは楽になれないだろう」
と批評してくれたことがある。
 
音楽でも詩でもなんでも、「表現する」ということの根幹にかかわる名批評だと今でも思う。
(実は彼は現在俳句評論家として結構な名をなしている。) 
 

 
表現する、ということは きちんと産み落とすことだ。
 
まず自分の感情、心と表現手段の出会いが「受精卵」となり着床する。
それを臨月まで育て上げ 産み落とす事。
それが表現するということだ。
きちんと産み落とし 産褥もすませたら、心は一度リセットされる。 
 
その感覚が得られないものは ちゃんとした表現になっていないということだ。
 


 


くちなしの実よ
くちなしの実のように
待ちこがれつつ
ひたすらに こがれ生きよ



高野喜久雄の「くちなし」という詩にはこのフレーズはないが、合唱曲になった「くちなし」の歌詞にはある。
「焦がれ生きよ」



焦がれ
凝縮し
きりきりと言葉(音楽)をおいつめ
産み落とせ。
 

それが私のいつも心に抱く想いなのだ。
 
(高野喜久雄は 父の逝った翌年2006年の6月に亡くなられました。
 生前 私の送ったメールに丁寧な御返事を下さり、
 父のことも話題になったことを今も覚えています。
 渋谷で行われた「お別れの会」には私も駆けつけました。
 会場で私と同じ「父を亡くした娘」(高野さんの娘さん)と
 初対面なのに抱き合って泣きました。)



いま わたしは願う
わたしはただの弦
ひとすじの切なる弦でありたいと
その両はしが何んであれ
苦しいわたしの何んであれ
ひたすらに 問いも忘れことばも忘れ
きびしく 逆向きの力に耐えて
張られたただの弦
ぎりぎりの力で張られ
ぎりぎりの力で踏み耐える
ぎりぎりの 弦のいのちをいのちとしたいと


そして わたしは わたしをつまびく
きこえるうちは駄目なのだ
未だ駄目なのだ!
最も高い音は 音として
誰の耳にも きこえてこない
あのきこえない高さで 鳴りひびく弦
またその高さに耐える弦
けっして切れず
けっしてひるまず
けっして在るわけ 張られたわけをうたわない弦
あかしはいつも この弦の
この非常な高さからのみやってくる
とおもわれてならない とある夕暮
いなごのような眼をつむる
傷口のような口を閉じ
そしてわたしはいちずにおもう
あの弦だ
人の耳にはただの沈黙
ただの唖としてしか ひびかない弦
あのいのちをこそ いのちとしたいと

   「弦(いと)」 高野喜久雄




高野さん、黒田さんなどの作品を読んでみようと思った方はぜひこちらへ。
http://chobi256.blog108.fc2.com/
詩と言葉











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「表現」するということへの渇望
2011-07-15 (金) | 編集 |
誰にも心は開かない。
心の核心の言葉は となりにいるあなたにも
友人にも 兄弟にも
信頼する あなたにも
ましてや 日常接する 誰にも漏らさない
 
相手を本物の恋人だと思っている期間だけは
それらしい言葉も漏らすだけ


私を無口だと見抜く人は少なくて、
私はたぶん社交的で面倒見が良く、人見知りもしなくて
いつも人の輪に囲まれている とでも思わせておけ。

 
表現する、ということに突き動かされた最初はいつだろう。
10代の始め?
日記らしきものに心をさらけだすことは10歳頃に覚えた。
それはまだマグマと一緒だ。
15歳頃に最初の詩を書いた。
マグマと向き合い続けて、凝縮させて核になってしまうまで追い詰めることを
だんだん覚えた
それが「表現」ということだった

ごく私的な内的世界をどこまでも追求し純化してゆくことでだけ得られる普遍性、みたいなものを感じた。
普遍性を手に入れるまで追求を続けること・・・・・それが自分にとっての「表現」するということだった
そうして自分の外に産み出さない限り、
卵は内部で腐って自家中毒してしまう。
それは危険な核廃棄物みたいなものだから。 
 
詩。
一時期は描くことも。
今は音楽。

皮肉なことに
どれだけ誰かを愛しても
伝わった、とその時感じるのは大抵が幻想だ。
 
私を抱きしめたその人よりも、
見たことも逢ったこともない触れたこともない誰かが
たまたま私の詩の言葉に共鳴し、
何かを深いところで共有することがあるとき
私にとって その人のほうが 余程「絆」を実感できるのだ

そしてそういう絆を私は渇望しているのだと思います。

この時 いつも頭に浮かぶのは八木重吉の「秋の瞳」の序文です。

「秋の瞳」序文
 


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